昭和59年07月22日 壮年大会



 只今竹内先生のお話の中にありました様に、おかげは絶対だとお取次ぎを頂く、安心の心が生まれる。それが願い以上のおかげに必ずなるんだと言う。いわゆる確信を持っておいでの方ですから。ま今の様なお話が出来られた訳ですが、私しは確かに信心んはみやすいものじゃがとこう仰るところでございますがね。だからお取次ぎを頂いて安心の確立とはいかなくても、確立に向わせて頂く過程を辿らせて頂きながら、そして絶対真と言う事になるのでございましょう。
 今朝から今日は出られない様に思ってましたけれども。一口挨拶をして頂ければと言う事でございましたが、神様にその事を御願いさせて頂いとりましたら。根本は和にあると言う事頂いたんです。教祖の説かれる御教えの根本は、確かに和の心だと思うですね。普通一般に言う和とはいささか違うと思うです。教祖の説かれた和と言うのは、絶対真から生まれて来るのであって、それに向って一歩一歩近付いて行こうとする精進が為されなければならないと。いわばおかげはみやすい。
 お取次ぎを頂く安心の心が生まれる。安心と言うよりもなんというかね、本当の意味の安心じゃないけどもまぁ心が安らぐ。その安らぐ心におかげが頂かれる。今日私が皆さんに聞いて頂こうという和はね。教祖が説かれた本当のおかげは和賀心にあるとおおせられる和である。今朝からテレビを見せて頂いとりましたら、国際大学と言う大学校があるそうですね。その国際大学の教授をなさっておられる方のお話しがあっとりましたが。今世界のいわば難儀と申しますか。
 本当にアフリカ辺りはもう大変ひどいそうですが。それば例えば慈悲の心で救うとか助けると言うても、それは本当の助かりにゃならない。例えば魚を食べて事のない人に魚を与える。まぁ魚と言うもんは美味しいもんだ有り難いもんでと思うて食べるだけの事。だから本当の事は魚を取るすべを教えるのが、本当に救う事になるんだと言う意味の話、なかなかいいこと言われるなと聞かしても例ました。
 教祖の信心のぎりぎりのところはそこだと思うですね。あまり和の心と言うても、ただあのう一般で言われる和とは違った。これはもう10数年も前でしたが、佐藤と言う先生が合楽に暫く、学院から夏休みの間修行に来ておりました。佐藤宿老のひ孫にあたるとかいう。まぁ下関のある教会に養子に見えとる方です。が合楽の話を聞いてもういわゆるやむにやまれん心で、学院で色々あのう、まぁ廃物ですかね。
 いまいう一升瓶なんかがいくらもこう溜まって、それを自分がみな拾い集めてそれを売った金で、その合楽までの旅費として、ま修行に見えたと言うまぁ熱心な方なんです。もうここへ着かれたのは御祈念が済んで、消灯のお広前は薄暗い中に何かこう身にじんとするものを感じながら、お広前に進まして貰いました。神様に御挨拶をさして頂いとりましたら、始めて神様からお知らせを頂いたというて、その翌日お届けがございましたが、御神前一体に平和な心と頂いたと言う。
 しかもその平和な心と言うその一字一字にタイトルがついておりました。平と言うのは一の字を書いて八の字を書きそして十の字をここへ。ひら平とあの平と一緒になりますよね。一の時から始まって八広がりに広がる、十全の境地と言うかおかげの受けれれると言う意味でしょうね。そういうタイトルがついておった。和という字はもうそれこそ、鉄筋コンクリーで作ったのであろうかと思う様な頑丈な、和を、教祖が言われる和賀心の和とは是だと思うですね。叩いても壊れないどんな場合であっても揺るがない。
 自分の心の中に頂く所の和の心という、信心にいうならば。鍛えに鍛えさせて頂いて、それがそうした確固なものになって行き、そこから私は生まれて来る安心の確率のならなければならない。一遍にただ普通一般はおとりとぎを頂いておかげを頂く。確かにおかげが受けられる。またお取次ぎを頂けば心も安らぐ。大変難しい問題であっても親先生がもう本当に簡単にハイハイと言うて下さった。それはおかげを頂くと言った様な事をよく皆さんが申しますからね。
その安らぎの心にもおかげは頂ける訳ですけれども。教祖の説かれる信心を頂くと言う事は、まぁそんの見やすい事ではないと。それこそ今の何々教授のお話じゃないですけれども。簡単にお魚を与える事のが金光教であると同時に、その魚をどう言う手立てでとることが出来るかと。一生魚が食べられる事のために、教祖の教えはありその教えの根本的理念とでも申しますかね。それは私は和に発すると思うです。和にあるのです。その和は皆さん今例えば叩かれても壊れないと言う和なんです。
 そういう心が私しは一遍に頂けるとは思われません。だからそれを目指さして頂かなければならない。平和な心と言う。なという字は大きく大という字を頂いて、それで下に示すという字が書いてあったと言う話。いわゆる大きく示す。そういう金光大神の根本的な助かりの理念を私共が体験し実証して行って、それをいよいよ自分の終生に大きく広く示していかなければならん。そう言う私しはあのう責任を責任ですかね。
 お道の信心にならせて頂いたものの是は責任においてそれを大きく示して行けれる。いわゆる心を頂かなければならない。心という字は八の字をこう書いて、点々も八の字と書いてあったと言うのですね。お知らせ。いわゆる広がりに広がると言う事でしょうが、その広がりに広がって行く根本的なものが、やっぱり出来ておると言うか養われて行かなければならない。それにはやっぱり本当にこの和の心と言う事に本気で取り組ませて頂いて。その場合に腹の立つ様な事もありましょう。
 痛い痒い思いをする事もありましょう。血の涙の出るような事もありましょう。現在私しの成り行き成り行きとその中にあっても和の心を崩さない。その和の心を崩さないというその和の心にです。私は今日いう教祖が言われる、教祖の御教えの根本であるところの和と言うのは。その和の心に賀がよろこびが伴う、それを私しは和賀心だと。何かを頂いた時うれしいなぁと思う喜びとは違って。この和賀の賀は賀正の賀と書いておありますが。是は神様が与えて下さる喜びだと思います。
 神様が与えて下さるよろこび、それが和賀心。その和賀心をなら自分の終生に大きく示していく示して、そういう私しは精進が為されなければならないと思う。ただ自分がおかげ頂きゃ、自分だけ助かりゃええと言うだけではなくてね。それには今申しますいよいよ本当の教祖が言われる、和の心を鍛えそして養うて行かなければならない。人に例えば与えても勿論魚お与える事もありましょうっけれども。
 その人がいわゆる、一生魚が食べられる事のために、魚お取る術を教えて行けるような、ひとつおかげを皆さん一人一人頂いて頂きたい。またそう言う心を頂くための精進を、さして貰わなければならないとこう思う。今朝からそんなわけで、和についての教祖の御信心のいわゆるぎりぎりのところを、ま聞いて頂こうと思うており。今寝たり起きたりで御座いますから。
 休まして頂いて本当にあのう自分の小さい時の事からずうとこう思うて見て。そういう意識のない中に、私しは確かにあのう和の心を頂く事のための精進と、頂きまた続けてきた私しの生涯であったように思うんです。私の母の父、私しのためには爺になりますが。浮羽郡の麥生と言うところでございましたが。まぁだ私しが小さい時しかもこれだけは忘れられんない、何時も皆さんに聞いて頂くお話でございますけれども。
 小学校の時に元旦祭の時にずうっと、長い廊下に皆んなが整列して講堂に入るのを待っておる時に、向こうの方から走ってきた友達が、ボンと私したちに突き当たる様に走って来て、私しは小さい時から霜焼けが手足に一杯しておりましたが。足のしもやけの上をいやっと言うほどに踏んずけた時に。爺が教えてくれておった言葉が、ま閃いた頭のなかに、惣一ちゃんやぃいっちょだんくらわせられたっちゃね決して喧嘩どんしちゃならんぞ。ナマンダブナマンダブと言いよると痛かとはよくなる。ようなる。
 いっちょだんくらわせられたっちゃ喧嘩しちゃならん。ナマンダブナマンダブというと痛かとがようなる。その事がね私のその小さい子供の頭にひらめいたんですね。ほれでもう本当にあのそん時の事を、痛かったなんだがこぼれちゅうことはなかったけれども。何か分けのわからん涙がこぼれた事を覚えとる。長じていわゆる金光様の御信心をいよいよ頂く様になって、まぁ金光様金光様でまいりましたが。
 やはり生涯いろいろなもう本当に腹の立つ事やら、なさけない思いやら、それこそ血の涙の出る様な思いをする事もありましたけれども。それがあのうおかげでまぁはぁもうあんやついっちょ敵討ちをしたやらにゃと言った様な思いではなくてね。その心が私しを養い私しを、まぁ育てて頂いてきたんだなぁ、何十年かそう言うな事がいくらもあったなぁと、今朝から思わせて頂いた訳でございます。
 昨日病院に行く車の中で、皆さんがいろいろ会合の皆さんのお話やら発表やらを、テープに取っておりますから。行き戻り聞かせて頂くんですけれども。先日の美登里会の中で、吉井の熊谷さんが発表しておられましたが。初めて椛目の早々の頃でしたが、お導きを頂いてのお参りをさして頂いて、今までして来ておった信心の間違い。はぁここでこそこりゃ本当の助かりが頂けるなと思う様になって、繁々とお参りするようになった。そうして繁々とお参りしておる内に。
 当時の椛目時代大坪家の人達、私しと両親、私しと家内、又その子供達、修行なさっておられる方達、そういう雰囲気の中に、もう何とも言えんそのうお互いにこう努力し合うとか褒め合うとか、そういう何にもないのにその素晴らしい、ご家庭の雰囲気に触れるに従って。いよいよ合楽当時の椛目の信心に帰依してまいりましたと言うのを聞かして頂いて。確かにそうだと思うです。
 お互いが努力し合うとか辛抱し合う、そしてあのうちではこっとりとも言わん、平和な家庭の様であっても。内心は何かぐうぐう言わんならん様な事があると言った様な。ものではなくてそんなものないのに係らず、こう言うならばまぁ平和な家庭、それがお参りして見える信者さん方にも、こう広がって行っておる様な様子を、まぁ感受された訳ですね。そう言えば本当に私しは、私しの家庭の事を思うて。
 まぁ現在なんかはあの子供達が5人の所帯が、所帯は一つですけれども、まぁおります。それに子供達が先日また一人出来ましたから、孫たちが13人おり。何十人の家族。又は50人余りもおられるでしょうか修行生の皆さん。中にあってこういう風にせにゃいかんというな、まぁ教会内の規律何か厳しいその、戒律的なものを言わずに今の様に、御昼間も私し務める事も出来ない様な状態であっても。なんとはなしにあのうおかげの世界が、合楽中心にして広がっておると言う事を思う時にです。
 矢張り教祖の言われる和の心。その和のまぁ中心に私しの心の中に育ってきたその和の心の中に、そういう皆んなが浸って居れれると言う事は。確かにこの和の心と言うものは大した事だなと思います。あぁせねばならんこうせねばならん、そう言う事じゃいけないそうじゃなくてね。なんにもそのまぁ私しなら息子たちのま嫁なら嫁は。いうなら全然大坪家とは違った家風の家から来ておりますけれども。
 大坪家の家風にならわんならん。こうだと言った様な事を言わんで、もう何とはなしにまぁなんちゅですかね。いわゆる和賀心の世界に、皆んなが住んでおると言う。感じに皆さんもそう受けられるんじゃないでしょうか。私しはそう思うんです。あそこでは、本当に口争いとかいろんな問題やらと言う様なものは、全然ない様なおかげを頂けておる。それが和の心、しかもその教祖が言われる和の心には、必ず喜びが伴のうて来る。いや神様が与えて下さる。
 喜びのそれはどんなにならきつい運命下にあっても、なら今日の私しの病状はまぁいうならただならぬ病状でございますけれども。その中にあってももうここになんげきか、困ったなとさいさい苦しい事もありますけれども。それ以上の和の心があり喜びの心がありますから。まぁ言うならばにこやかにしとられると言う事です。私しはもう合楽に御縁を頂かれた方達は皆んな。この和の心を持って家ににこやかに一日を、しかもそれを極まった上にも極めて、真の和の精進をして行なければならん。
 先程うわさの竹内先生がもう何回もの市長になられた訳ですけども。或る時の市長選の時に当選の事を、その地方の新聞がこうあのう書いておりましたが。一面に大きく見出しに今度の市長の当選のはあのいつも、あのスマイルにあるかとそんな書いてある。スマイルと言う事はどう言う事か知りませんけれども、にこやかさだという。あのにこやかさがあのう市長の札をまた頂きとめられたんだと言った様な事が、だがそういう厳しいとか、激しいそう言ういうなら戦の様な選挙戦の中にあっても。
 あのスマイルを忘れないでにこやかさを持っておれれる様な、私しはあのう世界にお互い住みたいと思います。金光教の信心で、いや教えの根本は、今日改めて思うております事ですけれども。改めて今日今朝から思うておる事は、はぁ教祖の御教えの根本は、和の心に発しておるんだなと言う事でございます。だからその和の心を極めて行くに従って、与えられるのが喜びの賀の心である。
 是は神様が与えて下さる。いわゆる和賀心である。その和賀心を今月今日一心にまで和賀心である仰せられるのである。ここの和の心をね。極めて行こうと言うひとつの構えを日々つくらなきゃいけないと思うです。朝晩天地書附を唱えておるというのでなくて、今日も教祖の言われる和賀心でどれだけの生活のなかに和の心が頂けたか。反省しては出来なかったところは改め。そういう私しは年月を経ていわゆる和の心と言うもが本当なものになって行く。
 その和の心は家庭の中に自分の周辺に、それをいうならいよいよ大きく周囲に示して行けれるところまで和の心を育てて行きたい。賀の心は期せずして神様がその和の心に与えてくださる。普通一般で言うのは和の心と言うのはよく似てますけれども。喜びを与えられると言う事はない。おかげが伴のうて来ると言う事には、大変なその関係はもちません。けれども教祖が言われるその和の心を、私共の心の中にいよいよ育てて行く。それをやっぱ日々あのう繰り返さして頂いて。
 私しが少年の時に、例えひとつぐらいくらわせられたっちゃ、いうならはがゆい相手に打って返したい様な時であってもナマンダブナマンダブというておると。痛いとはようなると。実際なら実験してみて。まもってみてそう言う様な雰囲気が私しの生涯の中にあった。今日私しゃ改めてそうな事を思い出したんですけれども。それで近所の子供達が5人や6人でよそにこう遊びに行く様な時であっても。
 友達のお母さんが言うておりました。はぁ今日は総一ちゃんがおんなさるけん大丈夫。と言った様な事をね。あのうそれだけ信用されとったというのでしょうか。確かに私しの周辺にはあのう喧嘩がなかったですね。穏やかでした。もう大変こじれた問題なんか先生が私しに相談ちゃないけれども。まぁ相談の様な事を言われて私が行くと納まると言った様な事もございましたが。
 そういうそのう一つ位くらわせられたっちゃナマンダブナマンダブと言う様な生き方を勉強しながらでも遊びながらでも何時も、思っておったそういう雰囲気がいわゆる、友達のお母さんが言う。はぁ今日は総一ちゃんが連んのうていきょんなさるけんで大丈夫と言う様なものを与えられたんじゃないかと。これは段々長ずるに従って、少年期、青年期に入って、いまはまぁこう老年期に入ったですが。
 よいよそれが育つに育って今日では、どういう中にあってもあの和の心を、又はよろこびの心を外す事のない心の状態が開けて来た事を思う時に。ここ何十年と積み上げてきたその事に、別にその事に焦点を置いて頑張ろうと言った様なもんじゃなくてね。まぁなんとはなしにそう言う働きを受け続けて来て。今日合楽がありますから、合楽に御縁を頂く達矢張りそういうありかたをね。銘々の生活の中に現して頂きたい。
 どうぞ和の心です。それは叩いても壊れない和の心を目指さして貰って、いわゆる本当のお道の信奉者足るおかげを現して、大きく示して行かれる事を望みます。やっぱ取り組まなければ駄目なんです。しっかり取り組んで先程の佐賀の古賀さん達親子三人、今度娘さんがヨーロッパの方へ展開、挨拶に見えましたから今の話をね、もうどこにおってもね。あのどんな場合であっても和の心を崩さない様な、しっかり精進をしなさいよと。これさえ外さなかったら必ずおかげになる。
 とまぁお話した事ですが皆さん今日私が今言っておる。ただおかげを頂くのはみやすいけれども。信心は矢張りみやすいけれども。みやすいけれどもそのみやすい事を毎日これをあのう続けて行くうちにそれを本当な神様から与えられる賀の心。和賀心が育ってくるのでございますから。改めてもう一遍自分たちが頂いておる信心と。また心の中に和を。けれどもそのみやすい事を毎日これをあのう、続けて行くうちに。
 それが本当な神様から与えられる賀の心、和賀心が育ってくるのでございますから。改めてもう一遍自分たちが頂いておる信心と、また心の中に和を求めての日々であるかどうかを確かめていよいよ自分のものに、いわゆる合楽におかげを頂いておる。魚を与えられることは簡単ですっけれども。今日は私しはその魚を取る術、本当に一生頂いて行けれる術はこの和の心にあると言う様な事を聞いて頂いた訳です。
   どうぞ。